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『小林秀雄と夏目漱石』(廣木寧著)への感想

先日、学生数名が集まって、本書の第一章を読む勉強会を行った。きっかけは、平成26年2月に都内で開かれた廣木氏の講演会。本書の第一章「内発的に生きるということ」が基となっていた。講演は大変面白かったから、もっと深めたいということになったのだ。実際の文章は、講演の何倍も面白く、また深い。この第一章で廣木氏は、小林秀雄と夏目漱石の文章をたどりつつ、現代の日本が抱える問題に迫っている。
 「戦後日本は全てが外発的だ」。勉強会で一人の学生が言った言葉だ。咄嗟に「『全て』とは何と乱暴な」と思った。しかし、本書を読み進めるうち、この言葉は、廣木氏の提起する問題を言い表しているかもしれない、と思うようになった。
 明治の開国と先の大戦の敗北による外国文化の流入は、日本を外からの圧力によって「外発的」に開化させた。一方で、内側からの、日本人本来の意思による「内発的」な開化はどうか。先の大戦の敗北によって不可能にさせられた、廣木氏はこう指摘する。占領下、小林秀雄の発した「日本人本然の声」は、検閲によって削除されていた。現代の日本は依然、その呪縛の中にあるという。その中にあって、日本は「日本そのもの」を「捨て去ろうとしている」。
 では、どうするべきか。
 廣木氏の文章には、読む者をして引き込まずにはいられない力があると思う。一人の学生が、最後に次のような感想を述べた。「小林秀雄と夏目漱石、最初は、この二人がどうつながるのか分らなかった。しかし、本書を読んで、二人が同じ問題を考えていた、ということが分った」。確かにそうだと思った。しかし、それを浮き彫りにしているのが、廣木氏の文章に他ならないのだ。

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